2009年10月24日土曜日

自分用のメモのような雑記のような

誰かと心のそこで手をつなぐことができていられれば
ひとりでも立っていられるようになるかもしれない。
その人も同じようにみえない手のひらを握っていることを
願うしかない。
それしか方法がないようなときには、ひとはよくわからないものを
信じたり頼ることがある。上の話はそんなのの一つの例だろうと思われればいい。

この世界では神様を忘れている。忘れてるでしょう?
神様を感じて神様の顔を見ながら生きていられたらいいのに。と思ったりする。
それは私の神さま。あなたにはあなたの神さま。

なんの手も貸せないことを嘆くのは
勝手にやるせない気持ちになってるだけで、実はただのエゴなのかもしれない。
もっとシンプルで素朴な感情でいたい。

道をひとつ選べば残りの道を捨てたことになる。
残りの道を捨てることがこわかった。いつも
どの道も選べるようにしておきたいからだ。

道を目前にしてそこにずっと寝転んでいればいいのだけれど
時間が止まるわけでないから選べる道の数はすこしづつ減っていく。
結局どこかにいかねばと思ってくる。

振り出しに戻る。その繰り返しを生きている間何度か繰り返すとタイムリミットがきてしまう。
時間に気をつけろ。と思う。

ものごころと努力と勇気と行動、あと学習意欲
平常心。持ち合わせているようで、ないような性質。
ないようであるときもある。
連続すればもっとよいよね。

自分用の言葉は紙の日記にかくべきだろうか。
ちなみにその日記は誰かに発掘されたいのだろうか。いやちがう。
でも紙の日記に書く時ですらなぜか他人に読まれても恥ずかしくないようにかいてしまう。
「たとえ間違って、いつ見られてもいいように」だ。
なんでだろうこの不思議。昔からだ。
本当の本当の本当のことばはいったいどこに隠しておけばいいんだろう。
紙にも書かず、言葉にも発さず、どこに持って行けばいいだろう?
「本当」は「隠す」ものというのがそもそも違うんだろうか。
「裏」も「表」もありませんというように。
だからこの日記も「公開」のボタンを押すのかもしれない。