2009年10月23日金曜日

松濤美術館/野島康三をみて階段を昇る日

データ出しにいった帰りに渋谷の松濤美術館に寄った。
肖像の核心展というタイトルだったから。
昔の人と自分と何かが違うだろうかと思ったから、見たくなったのね。

どうして人を撮るんだろう。考えたり、聞かれたりする度に
「私が人に会いたいからだ」とずっと思ってきた。
でも何かなにか足りないような気もすこしあった。

どうしてポートレイト?
どうしてだれも彼も知っているような人でない普通の人を撮るの?
友人を撮って見せて世の中になんの意味があるの?
それってアートなの?趣味なの?自己満足なの?
なんなの?



自覚していなかったことがひとつある。
顔って強いんだ。ということ。
これだけでは意味がわからん文章ではあるけれど。

強い顔って存在する。
おそらく誰でも持ってるもので、何かの瞬間で、顔のもつパワー自体がでちゃっている
状態の顔というのか。よけいにこんがらがる言い回しになってますが。
その顔にはうまく説明しがたい魅力がある、ということ。

わたしはその人のキャラクターにも惹かれてる、その人のもつ外面的なものや
空気のようなものにも。だから会いたいと思うのは必然のような気もするし
何よりそれは嘘じゃない、ごく自然な発想。
でもまてよ。
もしかして私が惹かれているのは
その顔が持ってる例のアレ!と、無意識のなかで予想&期待していた
よくわからない状態の中の顔/顔状の空間のねじれ的時間(?)なんじゃなかろうか。
という気づきにいたりました。
世に言う美人不美人とか、ハンサム不ハンサムとは別のところに存在するやつ。

顔。。いまさら出たのが顔か。。

振り返ると荒木さんが「顔」を撮ってる。
野島康三さんが「女の顔」を撮っている。

ひとはひとの顔に惹きつけられるんだというシンプルな話に
すごく納得がいってしまって
今日は階段を昇った感がある。君はもうシンデレラかしら。

プリミティブな欲求ってこういうことなのかも。

人がすき/人に会いたい
それはなぜだったか?
それはどの瞬間も同じであったことのないあなたの顔を、
1秒先にもどうなることかと
いつまで見ていたいからなんだともおもった。
ねじれはいつでもやってくるし、いつやってくるのかもわからない!
見続けるしかないのだー。

顔を見すぎると失礼だと言われるので、
昔からできるだけ見すぎないように気をつけているつもりなんですが。。
でも本当のことをいうと失礼でも見ていたいのが顔だったり。

その顔をよくみせてと
今度は口に出してみるのも、歌のようでおもしろいかも。

明日早いし超ねむたいのに長々書いちゃったよ。
おやすみなさい夜。ふとんへダッシュだ。