珍しく若い子に相談を受けて渋谷に行く。
その子の写真を見せて貰ったので
写真についての感想を言ったりしてた。
進路相談とか。
もちろん。わたしに
偉そうに言えることなんて何一つはないんだけど。
写真を「見て下さい」って言ってみせられるのは、
話しかけられてるのに近いように思うから。
はぐらかしたり、何も言わないのっていけないんだろうと最近は思う。
誰かからの教育から学んだのか、そうでないのか。
よいとこ、と悪いとこ、を挙げるようにしてみた。
でも。彼女の写真について言っていることがすべて
自分の写真に向かって言っていることのような気がした。
人の写真について話す行為であっても、
結局自分のいる写真の枠や、思惑から外には出られないことに
改めて気づいた。
*
ある時は
私はこの世界を見ているんです。
あなたにも見せたいんです。ほら
どうですか。
あなたはこの物語はお好みですか。
驚いたりしましたか。
っていう問いかけだったりもするんじゃなかろうか。
ほかには
さあさあ。世界はこれしかありえない。
「この世界」しか私には見えない。
見てごらんなさいよ。ね?
という断定だったりとかな。
その、のめり込み具合に見てる人は悦んだり。
そういうゲーム。??。
その人が尋常でない時間を
よくわからないものにかけるとこ。
に
悲哀があったり。
面白さがあったり。
*
さいきん。
ゲームの駒をすすめる勇気部分の描写に注目してしまう。
本での物語も、ドラマも、映画も、現実世界でも。
人はどこで踏み出すのか。どんな時に必死になるのか。
とか。人生をもし起承転結にしたら「転」部分にあたるのかも。
どう転じさせるのか。
それが意思と人と人生をつくってく。
せめて自分だけでも愛せるドラマでないと嫌だな。
できれば面白ければもっといいよな。
だからしっかりしろよ
と結局、自分に言っているんだけどね、というオチ。