2009年8月29日土曜日

あなたにあいたい

という気持ちが先にあって
でも
あまりに単純なので
何かスパイスが必要なんじゃないか、と
自分の持ちネタを捏ねたり、丸めたりして
かたちを作ってみていた。いや、今もそうしている。

プレゼントを包装したり、絵を額にいれたりするようなものだろうか。

なんだって覆うものがおおければおおいほど
その地肌から遠くなって
直接触れることもなくなる
なんていうか、当然「むきだし」ではなくなる。
「あなた」に届くまでの距離が遠くなる。

「わたし」でもない「あなた」でもない
通りすがりの受取手が仮に興味を持って、そのフィルターに意味を見いだしたくなっても、
本当は答えなんてなくて、ただ「なんとなく」という謎の空気を醸している
その作品に首を傾げる。「写真やアートはよくわからないからな」と納得してくれたりする。

意味深なだけ。それは「感じ」であって
何にもない、ってこと。
つまり、それはごまかしているってこと。にならないか。
たいして考えて行われたことではないんだよ、
と名言せずに煙にまく手法とは違うと言えるだろうか。

つつんでつつんで誰かに差し出すことは
今私がすべきことなのかしら。

もっと剥いで、削いでいったエッセンスを無防備に差し出すくらいの
痛みと思い切りが必要なんではなかろうか。

感情的な人間であること、コンセプチュアルなことに不向きであること、
むしろ、それを認めて「〜のような」作品から足を洗うべきなのでは??


もしそれで勝負ができないような存在であったら
もしかしたら、単に不向きだったと言ってもいいのかもしれない。

確実に道筋があるものじゃないんだ、それを探してく種類の試みなんだ、ということ。

勇気をもって進まなくちゃ、意味がナイ。
ふむ。

ねえ。どうおもう??