2010年2月2日火曜日

メモ

何においてもたとえば自分のじゃなくて誰かの人生においてでさえも
「自分」ってやつはその中で重要人物でなければ意味がないような
気がすることがあるけど
例。大事な誰かの大事なひとでいたい、というような願望

実際のところ脇役でいるだけでいい場合がいっぱいある。
脇役をナイスに演じることができるほうがかっこいいこともあり
例。学芸会で主役をもらわなくてもだだをこねない度量など

その名脇役ぶりから、気づくと主役に並ぶ存在感を放つ役どころに変化してるときがある。
それを見つけてしまった時の喜びはおおきい。
だが彼はそんなことは知りもせず気にとめもせず自分の職務を果たすだけなんだ。
その無欲なことといったらないよ。。だから栄誉がある。
でもそんなのを見ているのはその世界を書き綴っているひととモニターから見ているひとだけなんだ!
実生活ではだれかのためにやるもんじゃない。

1か0かの極端な思考では真の脇役心の機微とか滋味は得られんのかもしれん。

とはいえ
主役を狙いに行く欲望やがんばりや野心や挫折というのは
わかりやすくキラキラとかギラギラしていて観客をどきどきハラハラさせる。
そういう時間も人生80年のなかには必要か。そうだ。

脇役でもあり主人公でもあることからは逃れられないのだ。