2009年4月21日火曜日

枕元に「さよならみどりちゃん」

タイトルと無関係だけど
詩人のひとのことばについて考えてた。
お風呂で。さっき。

たとえば教科書にのってるくらい有名な
女性の詩人の詩の中の
1単語?が思い浮かんできてそのことをぼんやり考えてた。
「ばかものよ」ってことば。
前後に文脈はあるよ。
でも、なんとなくいつもそのあたりのフレーズが浮かんでくるんで
印象が強いんだと思う。

よくよく思い返して
誰かに正面切ってそんなことを言ったことなんてない。
言えるとしたら笑えるときくらいじゃあなかろうか。
笑いで言葉の意味とは違うんですよ。と伝える。
まさか本気で「ばかものよ」と言ったら険悪になりそうだもん。

たとえば
それがおおっぴらに公の場で
発せられる言葉だったり
ある詩人のことばだったりしたら。
その人はその言葉に責任をおっていて
笑ってにごしてるんじゃなくて
その言葉の方の意味を伝えようとしてる。
伝えるためにことばを使用してるんだとおもう。

あるひとが本当の詩人であるばあい
その人はことばをつかって人にアプローチをするだろうし
真摯にことばを扱って伝えようとするはず。
小説家でもライターのひとでも
きっと本物のひとは自分が生み出すことばに責任をもってる。
そのことばで生まれてくる世界や物語やイメージにもきっと。
ああ、きっとここでいう「ことば」は何にでも置き換われる。
その人がその人たる由縁と言えるような何か、何でも。

ここのところ毎晩なぜか
枕元に「さよならみどりちゃん」を置き、
読み通して気が済んで眠る。
(なぜこんなに愛読するのか全く理由がわからない。
だってストーリーわかってるのに!)
満喫とか家とかで消費している
漫画も作者が責任を持って世におくり出してる。
たとえわたしが知らないようなとんでもない官能の世界や、
くだらないと思うようなサスペンスや
癒しの物語だったりしてもたぶんね。
そのひとのビジネスだから。

うーん飛躍に飛躍をかさねてるのだけれども
いつも、このフレーズを思い出してしまうと
あたしゃひとに対して「ばかものよ」のひとつも言えないのだ。
という事実に愕然とする。
何かを伝えまいとする会話しかしてないんじゃないかとすら思える。

本当の意思や何かを伝えることが意味なく思えるという言い訳がある。
だけども。しかしだ。
自分のなかの曖昧模糊としたものに飲まれて
なんだかよくわからないままに生きていることが
このことばにとらわれる自分を現しているようで
ものすごくはがゆい気持ちになる。
それはそれは大層なもんです。

そんで毎回たなかは
その詩人の発したことばやそのことばがもつパワーにかなわん気持ちに
なるわけです。

そんでせめて明日からはもっと。
本当のことばを発したいとおもう。毎回。

それなのになぜだか嘘のような
ふわふわとした聞きとれない言葉ばかり出してしまう。
嘘の世界。本当である必要のない架空の発言。

おかしなものです。